神か魔物か!?日本古来よりの怪物「鬼」の変貌の歴史!
日本特有の魔物・鬼(ONI) こんにちは、This is Gucci。 「鬼」と聞けば、今では「鬼滅の刃」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?それ以外でも、「桃太郎」や「こぶとり爺さん」といった昔話とかでも、鬼の話を聞いた人も多いかと思います。especially、海外でも人気の鬼滅の刃の影響で、鬼(Demon)として認識している海外の方も多いかと思います。 しかしながら、昔本来の「鬼」の姿や実態、その変貌の歴史を知っている方は、そう多くはないのではないでしょうか?今回は、そんな日本古来から伝えられている「鬼」を深堀してみたいと思います。 If you read this、鬼に対する見方が変わっていくかと思います。 中国大陸から伝わった「鬼」 今では日本独自の怪物というイメージがある鬼。But actually、そのルーツは中国にあるのです。 「鬼」という文字は6世紀後半に中国から日本へと渡ったとされていますが、元々中国では、「鬼(KI)」という文字は「怨霊」や「幽霊」といった目に見えない霊魂そのものを表すものでした。especially、中国では鬼といえば女性の怨霊を指すことが多く。この世に未練を残して死んだ女性が怨霊となって人を襲うと考えられていました。今で言うところの「貞子」みたいな存在だったわけです。 That's、日本へと渡った際に、日本古来から正体不明の怪物を意味する「モノ」とのイメージと重なって、「鬼(ONI)」となったとされています。 よくわからないものの象徴だった「鬼」 今、「鬼ってどんな姿?」と聞かれたら、大体の方はこの画像のような、角を生やし牙を剝き出しにした恐ろしい形相の怪物を思い浮かべるのではないでしょうか? しかしながら、それは江戸時代以降に固まったイメージであり、それ以前の鬼は実態が分からない正体不明の怪物とされていました。そもそも鬼の語源は、上記の「オニ」の他に「おぬ(隠)」が転じたもので、この世にはいないものや、姿の見えないものを差す言葉から来ているという説があり、中国から「鬼」が伝わったばかりの頃は、よくわからない何かとされていました。 日本最古の鬼の記述とされている「阿用郷の鬼伝承」では、農耕民の男性を食い殺した鬼について、「一つ目」と記述されるのみであり、その全体像については詳しく書かれてはいません。Also、「日本書紀」では、斉明天皇の葬儀を朝倉山の上から、笠をかぶった巨大な鬼が眺めていたとされていますが、やはりここでも鬼の容姿は詳しくは書かれていません。 この様に、初期の鬼は「姿かたちがよくわからない何か」とされていました。 山の神ともされた「鬼」 また、当時の日本人は、自分たちの想像も及ばない程の自然現象や超常現象を、「カミ」と呼んで敬っていました。 昔は、自然のあらゆるものに精霊が宿ると信じられていて、目に見えないものや信じがたい現象も、精霊によるものだとされていました。その為、目に見えない鬼は「カミ」とも呼ばれ、祖先の霊や山の神を差す言葉としても使われていました。 Also、この様な山の神は「一つ目」の姿とされており、上記の「阿用郷の鬼」も、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と呼ばれる一つ目の神と関連付けられることもあります。 Eventually、時代と共に人にとって恵みをもたらすものを「神(カミ)」と定義し、人に災いをなす存在を「鬼(オニ、モノ)」と区別するようになったのです。 「鬼」の原型となった「獄卒」と「邪鬼」 地獄道で亡者を苛む「獄卒」 それでは、私たちが現在イメージする鬼のイメージは、一体どこから来ているのでしょうか? 6世紀頃に、日本には鬼と共に仏教の教えが伝わったとされています。その時に伝わったのが「六道輪廻」でした。人が死後に閻魔の裁きを受け、前世での報いによって転生先が決められるとされた世界観を表したもので、その後の日本の死生観にも多大な影響を与えました。 六道輪廻の中でも、最も最下層に位置し、最も罪深い亡者を裁くとされているのが「地獄道」でした。そこに落とされた亡者たちを苛む魔物が「獄卒」と呼ばれるものたちです。Its appearance is、牙を剥き出しに角を生やした恐ろしい形相の怪物で、今の私たちがイメージする鬼の姿の原型ともいうべき存在でもあります。 神仏によって征伐される「邪鬼」 仏教の教えと共に、もう一つ日本に伝わったのが「仏像」でした。 仏教の開祖である「釈迦如来」の仏像を初め、観音像や不動明王像など、仏教の神仏たちを立体化した像は、その後の日本美術にも多大な影響を与えました。 そのうちの一つ、仏教の世界を守護する「四天王像」の足元には、「邪鬼」と呼ばれる小鬼が踏みつけられています。「邪鬼」は、仏教の世界においては、仏の教えを阻害し人々に災いをなす存在で、それを懲らしめているのが四天王というわけです。恐ろし気な形相の邪鬼のイメージは中国で既に出来上がったものとされ、そのイメージが日本へと伝わったことで、鬼は人間を脅かし、神仏に懲らしめられる存在という認識が広がったものとされます。 平安時代に跋扈した「鬼」 こうして、仏教の伝来と共にイメージが固まり、実体のあるものとされるようになった鬼。Eventually、平安時代になると、鬼は朝廷や京の都を騒がす怪物として噂されるようになりました。 特に「今昔物語集」等の平安時代の文献においては、人食い鬼の存在が度々記述されています。 倉の中に潜む人食い鬼 例を挙げると、今昔物語集の巻27第7話はこんな内容です。 今は昔、在原業平と呼ばれる歌人が居たが、大変な女好きだった。ある夜、都でも美人と評判の良家の娘を外へこっそりと連れ出し、山荘の倉へと入り込んだ。お楽しみはこれからという所で、突如として雷鳴が響き渡り、業平は太刀を抜いた。Eventually、夜が更けて業平が娘の様子を確かめようと後ろを振り返ってみると、娘は頭と着衣だけを残して死んでいた。倉に潜む鬼の仕業であろうか。 この様に、鬼は物陰に隠れて人を食らう怪物として描かれていました。 貴族が目撃した百鬼夜行 また、今昔物語集の巻14第42話にはこのような言い伝えがあります。 今は昔、藤原常行と呼ばれる大納言がいたが、大変な女好きで夜な夜な愛人に会いに行った。ある夜、父母に内緒で数人の家来と共に愛人に会いに行くと、東の大宮大路の方から松明を持った謎の集団がやってきたので、物陰に隠れた。「一体何者であろうか」と常行が物陰から覗いてみると、なんとそれは鬼の集団であった。鬼に襲われるかと思われたか、どうゆう事か鬼どもは常行を捕えることが出来なかった。常行が助かったのは、乳母がその服に縫い込んだ尊勝陀羅尼の加護のお陰だった。 Heian period、得体のしれない者たちによる行列を「百鬼夜行」と呼び、もし目撃しようものなら、生きては帰れないものとして恐れられていました。その為、当時の貴族や人々は神仏の加護にすがることもあったのです。 この様に、仏教の伝来によって実体を得て平安時代に跋扈した鬼ですが、これでもまだよく分からない恐ろしい何かという存在で、その姿かたちも「こういうものだ」というものはありませんでした。これは鬼のイメージが、文献や言い伝えでのみ記されていた為に、その姿かたちが一貫しなかったからとも考えられます。地獄の獄卒や邪鬼などの姿が伝来してもなお、当時の人々にとって鬼は、まだまだ正体不明の存在だったのです。 絵巻の中で写実化された「鬼」 この様に、6世紀頃から平安時代に至るまで文献で示されてきた鬼。 but、貴族の時代から武士の時代へと移り変わった鎌倉時代に、大きな転機を迎えることになります。それまで口伝えや文章でしかイメージ出来なかった鬼が、絵巻などの絵画という形で写実化されるようになったのです。 for example、この画像の『春日権現験記』と呼ばれる絵巻には、屋根の上から民家を覗き込む赤い鬼の姿が描かれています。実はこの鬼は、当時日本で猛威を振るった疫病を擬人化したもので、目に見えない病気への恐怖を、「鬼」という形で具現化しているのです。目に見えない恐怖の象徴でもあった鬼を、病気の擬人化という形で表す事によって、少しでも安心を得ようとしたことが伺えます。 Also、同じく鎌倉時代に描かれた『北野天神縁起絵巻』では、死後に怨念から鬼の如き雷神へと変化し、京の都で暴れまわる菅原道真の姿が描かれています。The background is、やはり上記の疫病同様、目には見えない筈の怨霊や祟りを、「鬼」という形で分かりやすく理解・説明したいという意図が読み取れます。 この様に、昔の人々は目に見えない怪異や現象を、「鬼」として表し、絵巻などで写実化することで少しでも納得しようとしたのです。 討伐すべき存在となった「鬼」 こうして、絵巻によって写実化されたことで、鬼のイメージが一般にも広まり始めました。 当時の人々が恐れていた存在が明確に具現化された事により、鬼は「恐れるもの」から「討伐し征服するもの」として描かれるようになっていきました。鎌倉時代より後の南北朝時代に成立したとされる『大江山絵詞』では、以下のようなあらすじが描かれています。 時は平安、一条天皇が統治する京の都で、良家の美女が次々と攫われる事件があった。陰陽師の安倍晴明が占ってみると、これは大江山に潜む鬼の仕業だと判明する。一条天皇は即座に、源頼光を始めとした腕の立つ武将たちに討伐を命令。家来を連れた頼光一行は、その道中で出会った神仏から毒酒を授かり、鬼の頭領である酒呑童子を始めとした、大江山の鬼どもの隙を突いて、毒酒を盛り込み、力が抜けたところを斬りかかり、鬼どもを討伐した。 この様に、鬼は物語の中では明確に「人々を脅かし、神仏や英雄によって討伐されるもの」として描写されています。西洋で言う所の「竜(Dragon)」と同じように、人間社会や時の権力者にとっての敵として、退治される怪物として描かれるようになったのです。 キャラクター化が進んだ「鬼」 この様に、平安から中世に至るまで人々に恐れられ続けていた鬼。 but、時代が室町時代から江戸時代に至るころには、鬼の存在が懐疑的に見られていったことに加えて、鬼が写実化されたことによって、鬼に対する恐怖や畏れが薄らいでいきました。そうした背景もあり、室町時代になると鬼や妖怪が「能」などの舞台演目に登場するようになり、次第に鬼は物語の登場人物として扱われるようになりました。 and、江戸時代になった頃には、「雨月物語」や「四谷怪談」等のような、妖怪や幽霊を題材にした読み物が人気を博すようになり、鬼も同様に読み物などの娯楽として語られるようになりました。Among them、江戸の庶民に人気だったのは、「浮世絵」と呼ばれる大衆向けの絵画でした。浮世絵による活版印刷の発達により、誰でも手軽に浮世絵を手にすることが出来たため、鬼や妖怪などを描いたものが庶民に広まり、鬼のイメージが庶民の間で固定化されて行ったのです。...