- 1 古今和歌集巻四「秋下」第291首から第300首の魅力
- 1.1 第291首 作者:藤原関雄 (Fujiwara no Sekio)
- 1.2 第292首 作者:僧正遍昭 (Sōjō Henjō)
- 1.3 第293首 作者:素性 (Sosei)
- 1.4 第294首 作者:在原業平 (Ariwara no Narihira)
- 1.5 第295首 作者:藤原敏行 (Fujiwara no Toshiyuki)
- 1.6 第296首 作者:忠峯 (Tadamune)
- 1.7 第297首 作者:紀貫之 (Ki no Tsurayuki)
- 1.8 第298首 作者:兼覧王 (Kanemi no Ō)
- 1.9 第299首 作者:紀貫之 (Ki no Tsurayuki)
- 1.10 第300首 作者:清原深養父 (Kiyohara no Fukayabu)
- 2 まとめ
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古今和歌集巻四「秋下」第291首から第300首の魅力

古今和歌集巻四「秋下」第291首から第300首は、秋の終わりに向かう自然の美や、そこに寄せる人の心の機微を、象徴と余情をもって詠み上げた名歌が揃います。
紅葉や霜、神話的なモチーフなど、平安時代の美意識と繊細な感受性が凝縮されています。
それぞれの和歌ごとに、作者名とローマ字よみを明記し、和歌の魅力を解説します。
第291首 作者:藤原関雄 (Fujiwara no Sekio)
和歌:
霜のたて 露のぬきこそ 弱からし 山の錦の おればかつ散る
ローマ字:
Shimo no tate tsuyu no nuki koso yowa karashi yama no nishiki no oreba katsu chiru

意味
霜を縦糸、露を横糸にして織った山の錦(紅葉)は、その糸が弱いので、すぐに散ってしまうのだろう。
背景
山の紅葉を織物に見立て、自然の美が一瞬で消える儚さを詠む。霜や露が紅葉を彩るという感性が表れる。
翻訳では伝わりにくい良さ
「山の錦」の比喩や、霜・露を糸に見立てる日本独特の繊細な美意識が、短い詩形に凝縮されています。
第292首 作者:僧正遍昭 (Sōjō Henjō)
和歌:
わび人の わきて立ち寄る 木の本は たのむかげなく もみぢ散りけり
ローマ字:
Wahi hito no wakite tachi yoru kono moto wa tanomu kage naku momicji chiri keri

意味
寂しい人が特に寄り添うこの木の下も、頼みにしていた葉陰がなくなり、紅葉が散ってしまった。
背景
孤独な心と秋の寂しさを重ねる。木の下に寄る人の心細さと紅葉の散りゆく様が響き合う。
翻訳では伝わりにくい良さ
「たのむかげなく」の余韻や、木の下に寄る人の心情をそっと描く、和歌独特の余白の美。
第293首 作者:素性 (Sosei)
和歌:
もみじ葉の 流れて止まる みなとには 紅深き 浪や立つらむ
ローマ字:
Momiji ba no nagarete tomaru minato ni wa kurenai fukaki nami ya tatsu ram

意味
紅葉が流れて溜まる河口には、深い紅色の波が立っているのだろうか。
背景
屏風絵の竜田川の紅葉を題材に、流れ着いた紅葉の美しさを想像して詠む。屏風の絵を題材にして詠む屏風歌は平安時代には盛んに作られた。
翻訳では伝わりにくい良さ
「紅深き浪」という幻想的な表現が、視覚的な鮮やかさと情緒を同時に伝えます。
第294首 作者:在原業平 (Ariwara no Narihira)
和歌:
ちはやぶる 神世も聞かず 竜田河 からくれなゐに 水くくるとは
ローマ字:
Chihayaburu kamiyo mo kikazu tatsuta-gawa karakurenai ni mizu kukuru to wa

意味
神代の昔にも聞いたことがない。竜田川が唐紅(深紅)に水を絞り染めるとは。
背景
竜田川の紅葉が水面を染める様を、神話的な誇張で詠む。技巧的な枕詞の使い方が光る。
翻訳では伝わりにくい良さ
「ちはやぶる」の枕詞や、「くくる」の多義性が、言葉遊びと美意識を際立たせる。
第295首 作者:藤原敏行 (Fujiwara no Toshiyuki)
和歌:
我が来つる 方も知られず くらぶ山 木々の木の葉の 散るとまがふに
ローマ字:
Waga kitsuru kata mo shirarezu kurabu yama kigi no konoha no chiru to magau ni

意味
自分がきた方角すらわからなくなる。暗い山で木々の葉が散り乱れると。
背景
人生の迷いと晩秋の山の寂しさを重ねる。紅葉の散り際に自分の心の揺れを映す。
翻訳では伝わりにくい良さ
「くらぶ山」の響きや、散り交う葉の中の心の迷いが和歌のリズムで伝わります。
第296首 作者:忠峯 (Tadamune)
和歌:
神なびの 三室の山を 秋ゆけば 錦たちきる 心地こそすれ
ローマ字:
Kaminabi no Mimuro no yama o aki yukeba nishiki tachikiru kokochi koso sure

意味
神が宿る三室山を秋に通ると、様々な錦を身に着ることができる気持ちがする。
背景
神聖な山と紅葉の美しさ、紅葉した山の中を通ると紅葉が身を包むほど散っている。
翻訳では伝わりにくい良さ
紅葉が散る様子を「錦たちきる」錦(高級な織物)を裁ってきているようだと美しさを讃えている。
第297首 作者:紀貫之 (Ki no Tsurayuki)
和歌:
見る人も なくて散りぬる 奥山の 紅葉は夜の 錦なりけり
ローマ字:
Miru hito mo nakute chirinuru okuyama no momiji wa yoru no nishiki narikeri

意味
見る人もいないまま散ってしまう奥山の紅葉は、夜の錦である。
背景
「夜の錦」は『史記』の項羽本紀にある「富貴にして故郷に帰らざるは錦を著て夜行くが如し」の故事からで、無駄、意味の無い事の例えである。
翻訳では伝わりにくい良さ
「夜の錦」の静けさと、誰にも見られず終わる美の哀しみが、和歌独特の余情となっている。
第298首 作者:兼覧王 (Kanemi no Ō)
和歌:
竜田姫 たむくる神の あればこそ 秋の木の葉の ぬさと散るらめ
ローマ字:
Tatsuta-hime tamukuru kami no areba koso aki no konoha no nusa to chiru rame

意味
竜田姫に奉る神がいるから、秋の木の葉が幣(ぬさ)のように散るのだろう。
背景
竜田姫を秋の女神とし、紅葉の散り様を神事に重ねて詠む。
翻訳では伝わりにくい良さ
神話的な想像力と、自然現象を神聖視する感覚が織り交ぜられている。
第299首 作者:紀貫之 (Ki no Tsurayuki)
和歌:
秋の山 紅葉をぬさと たむくれば すむ我さへぞ 旅心ちする
ローマ字:
Aki no yama momiji o nusa to tamukureba sumu waresa e zo tabi gokochi suru

意味
秋の山が紅葉を神への供物として奉ると、ここに住んでいる私でさえ旅をしているような気持ちになる。
背景
「幣(ぬさ)」は道中の安全を神に祈願する時に使う小さな紙や布で、この歌では紅葉を幣に見立てている。
翻訳では伝わりにくい良さ
紅葉を「ぬさ」と見立てることで、自然と人間の営みが分かちがたく結びついている世界観。
第300首 作者:清原深養父 (Kiyohara no Fukayabu)
和歌:
神なびの 山をすぎ行く 秋なれば 竜田河にぞ ぬさを手向くる
ローマ字:
Kaminabi no yama o sugi yuku aki nareba Tatsuta-gawa ni zo nusa o tamukuru

意味
神が宿る山を通り過ぎて行く秋なので、竜田川に紅葉を供え物(ぬさ)として手向けているのだ。
背景
秋の紅葉が川面を彩り、自然の美が神への捧げ物として昇華される。
翻訳では伝わりにくい良さ
この歌の特徴は「神なびの山」ではなくて竜田川に幣を手向けていると見ている点。何か奇妙なずれが感じられる。
まとめ

秋下巻の和歌は、自然の美しさと儚さ、神話や信仰、そして人の心の細やかな動きを、短い詩形の中で見事に表現している。
それぞれの歌が、秋という季節の多様な側面や、そこに込められた人々の思いを鮮やかに浮かび上がらせ、現代にも新たな感動をもたらす。
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